[創業の背景]

[高度成長期のシンボル]

巨大クレーンと石組みドックの面影

 呉海軍工廠係船掘、かつて昭和埠頭は大艦巨砲基地。ハンマーヘッドと呼ばれた巨大200トンクレーンは39mまで持ちあげ、半径47mで旋回しました。
 美しいフランス式の石積みの階段はドックでした。ここが、半世紀を超えて私共堀口海運昭和埠頭創業の現場でした。今ではその面影を一部残すだけとなりましたが、呉の街のすべての原点なのです。
 


 

昭和埠頭に残る石組み

[呉]

物流そして、国連平和維持活動の拠点として・・・

 明治16年3月。1250トンの測量艦が港に入った。艦長は東郷平八郎少佐。
 彼は7年後、再びやってきた。呉鎮守府第2代参謀長、海軍大佐。日本は急激な近代化へと驀進する。
 街道と海道を繋ぐ拠点としての港湾業務に従事する私たちもまた、呉の街をひたすら愛し、その歴史の重みを糧として、これまでがそうであったように、これからも精進してまいりたいと思います。


[未来をイメージ]

記憶の風景

 先端科学技術の粋を持ちあげる林立するクレーンのそばに、かつて魚雷を吊るしたという、黒くてシンプルなクレーンが据わっています。
 「人間は、現在の時点を過去として振り返って見たとき、自分が歩いてきた道が初めて必然に見える」と哲学者ベルグソンは言っています。これはまた、国も都市も、企業も同じではないでしょうか。
 堀口海運が創業の地・昭和埠頭を、国連平和維持活動の拠点とすると国が決めたとき、私共の創立者・堀口薫は、いさぎよく返還しました。
 


 
海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校) 大講堂

海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校) 幹部候補生学校庁舎

 

[近代ニッポンの知の街]

ギリシャ、フランス、そしてイギリスが見える

 近代のあけぼのが見える白の石積み、赤いレンガ、そこに若きニッポンのエリートが集まり、近代国家を熱く語った。ほとばしる生命を国家に捧げて。国中が彼らに未来を託して。
 呉の街は軍都というだけでなく、近代日本のモデル都市を形づくっていきました。
 
旧呉鎮守府庁司令長官官舎